ショートストーリー/His Story
1997年に近畿大学を卒業後、日本IBMに入社。3年間実業団野球を経験し、99年日本選手権後に野球部を退部。プロテストを目指すもどこの球団からも声が掛からず、11月からは野球をやらずにサラリーマン生活(経理部)に入る。
2000年正月に母校・守山高校監督に挨拶に行った際、監督から「野球がやりたかったら、今やるべきだ」言われ、次の日から二日酔いでランニングを開始。退部したIBMがグラウンドを貸してくれ、練習には後輩が付き合ってくれた。「みんなが温かく見守ってくれていた。また職場の皆さんが勤務時間まできちんと働けば、終わってからすぐ、練習に行っていいと理解を示してくれた」。ひたすら感謝!
その後、中山硬式野球クラブ(中山製鋼野球部OBを中心に作られたクラブチーム)に入れてもらい、毎週1時間半かけて大阪に通う。時々練習に参加できなかった時に「うちはクラブチームだから、実業団の時のように自分の投げる事だけを考えられては困る。試合の結果だけでなく、チームワークも大事」と言われ、それからは欠かさず練習に出るようになる。
2000年6月の都市対抗予選と、7月には滋賀県のIBMのグラウンドに大リーグのスカウト(アトランタ・ブレーブス)が来るが、ストレートのスピードが時速87マイル(約139km)で、最低90マイル(144km)出ないとだめだと言われる。そして「ダッシュを中心に下半身を鍛えておくように。1ヶ月後にまた見に来るから」。そして8月に強豪、松下電器戦で先発した際にスカウトが再び見に来るが、6回を投げて10失点。結果は散々だったが内容には満足していた。試合後、スカウトと食事をしたが「ピッチングはOK。スピードも91マイル(145km)出ていた。日本人相手のピッチングはわかったので、9月末からのアメリカ教育リーグで投げてくれ」と言われる。
当初、有給休暇を使って教育リーグへ行く予定で日本IBMの上司に話しにいくと「有給を使っていくのは構わないが、それで良いのか?有給使ってダメだった時の保険を掛けて挑戦するのが、本当に君にとって良い事なのか?」と言われ、悩んで出した結論は会社を辞めてアメリカに挑戦する!だった。「会社や同僚の方達にお世話になって、自分勝手にやってきた。また野球をやりたいからと言って、仕事をいやな顔をしてやってきた自分が社会人として恥ずかしいとも思った。でもこうなったらわがままを通さなきゃいけないと決断した」。
帰るところもなくなったが、悲壮感はなく「よし、やろう」と前向きに考えられた。「この決断をさせてくれたIBMの上司には感謝」。今でも覚えているが、渡米した日はシドニーオリンピックで高橋尚子選手が金メダルを取った日。入団が決まったのはイチロー選手が大リーグ行きを決めた日。「英語は全然ダメ」、準備なしでいきなりの渡米。「キャッチャーの言う事はなんとなくわかりましたよ(笑)」というレベル。英語もピッチングもぶっつけ本番でアメリカへ。そして教育リーグでは3週間での間に7試合ほど登板。そして2001年、アトランタ・ブレーブス傘下の2Aグリーンビルからスタートする事が決定。プロとしてのキャリアをスタートさせた。竹岡和宏、26歳の春だった。
それから3年以上が経った。今、竹岡和宏は「いい方々との出会い」と「野球ができる喜び」を感じて、今日も練習に励んでいる。

